2018年3月6日火曜日

ネットの表現は何故ここまで軽薄なのか

 ネットの表現はハッキリ言って薄っぺらい。
  例えば『神回』
1.作品において、画質、クオリティ、演出、展開などが賞賛されている回
2.作品において、神、精霊、もしくは神格をもった者などが登場する回

 続けて『キタ―――(゚∀゚)―――― !!』
1.何かが「来た」瞬間の興奮と感動を表す一行AA。何が来たかは問わないので汎用性は高い。標準的な一行型から、複数行に渡る大型や、キャラAAとの合体系などバリエーションも豊富である。

 『悲報』にいたってはこうだ。
1.【悲報】とは、煽れて嬉しいという【朗報】である。
 単に「悲報」と表記する場合、本来それはいわゆる悲しい報せを意味する言葉となる。
 しかし、特にまとめサイト・コピペブログなどのタイトルやその他掲示板のスレッドなどに【悲報】と前置きする形で表記されるような形式の場合、それは確実に恣意的な内容の記事となって現れることになる。
 その内容は概ね記事で扱っているジャンルなどにとって忌むべき出来事とされることが紹介されるが、当然の様に過激に煽り立てるような内容ばかりが抽出され、空気と総意の形成を行うような記事作成が行われてしまっている。試しに【悲報】で検索をしてみるとその惨状を簡単に窺うことが出来る。一方でそのような煽動的記事を回避する場合にも判別しやすくなっているというのは皮肉である。

 言葉の響きが薄っぺらく私は感じてくる。
 こういった言葉に感動を私は覚えない。違和感と虚しさしか残らない。最近のコミュニケーションは顔と顔を通したものではない。時間と距離はLINEによってクリアになるものの、顔と顔を通して話を交わし、結ばれたものになっているのだろうか。
 顔が見えないから、人の痛みもわからないのではないか。人種差別主義者であるレイシスト(ネトウヨもその一種だ)の主張する『論理』は全て机上の妄想にすぎず、顔と顔を交わして言葉をかわし合い、時には激論に近い形でぶつけ合い、認めあうことで生み出されたものではない。オンラインゲームで言う勝ち負けを持ち込んでいるのにすぎない。
 だから、レイシストの仲間共を集めこんで集中してコメントを投稿するのだろう。だが、議論は勝ち負けを競うものではなく、その作業を通じて自らと他者を更なる高みへと導くものなのである。白と黒をつけるものでもなければ、0か1の1Bit思考でもない。言論を通じて双方の成長を促すものでなければならない。
 議論を交わす人間や表現者はある意味孤独である。そういった覚悟を持っているからこそ、強くなれる。そういった現実を知らず、自分に酔いしれている薄っぺらい『論客』が左右問わず増えているのは問題だ。渡部昇一が死んだが、彼は歪んだ先駆者にすぎない。
 こういうものたちが陰謀論をささやき始めれば、危険性が生じると見ていい。厳しく私は批判を続ける。