2018年1月12日金曜日

ヨブ記から読み解く犯罪被害者の癒やしのあり方と罪と罰

 今回のコラムは、旧約聖書『ヨブ記』から考えたい。

 ヨブはウツの地の住民の中でも特に高潔であった。
 彼は七人の息子と三人の娘、そして多くの財産によって祝福されていた。ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、天では主の御前にサタンほか「神の使いたち」(新共同訳)が集まっていた。主はサタンの前にヨブの義を示す。サタンとてヨブの義を否定することはできないが、サタンは、ヨブの信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神に面と向かって呪うだろうと指摘する。
 神はヨブを信頼しており、サタンの指摘を受け入れて財産を奪うことを認め、ただし、命に手を出すことを禁ずる。サタンによってヨブは最愛の者や財産を失うが無垢であり罪を犯さなかった。サタンは最初に敗北する。サタンは、試みが徹底していなかったため、今度はヨブの肉体自身に苦しみを与えようと、再度神に挑戦をする。
 皮膚症に苦しむヨブに三人の友が来た。彼らは7日7晩、ヨブとともに座っていたが、激しい苦痛を見ると話しかけることもできなかった。やがて友人たちはヨブに、ヨブがこんなに悪い目にあうのは実は何か悪いことをした報いではないか、洗いざらい罪を認めたらどうかと議論し、身に覚えのないヨブは反発する。
(Wikipedia日本語版より)

 ここでは信仰についてどうこう言うつもりはない。
 私が言いたいのは、犯罪被害者の癒やしのあり方である。 突然理不尽な形で不幸に襲われた彼らに対して私たちはどうすればその傷を癒やすことができるのか。
 私は時間をかけて対話することしかできないと何度も口うるさく指摘してきた。時間をかけて対話することは同時に犯罪被害者の癒やしにも繋がるのである。その際に気をつけるべきは被害者に落ち度があるという発言を絶対に慎むことだ。それは被害者本人が言うべき言葉なのである。それは本人の自発的な意思に委ねるべきことなのであり、上から押し付けるべきことではない。
 事実を伝える程度なら書いて世の中に伝えるのはかまわないだろう。

 そして、犯罪加害者への罪とその罰には、感情的厳罰は断固として排除すべきなのは言うまでもない。
 光市母子暴行致死事件(メディアではいわゆる『光市母子殺害事件』とされているが事件の実態からこちらのほうが正確であるため拙ブログではこう呼称させていただく)では、被告人男性が未成年であったほか、精神疾患の一つである発達障がい当事者だった。その時点で被告人を死刑にする根拠は国際法では認められない。
 しかし、本村洋被告(法廷侮辱罪で国際法上有罪が確定)の悪質なヘイトスピーチと警察の悪質なアシストによって正義が不当に破壊され、被告人男性は不当に死刑を押し付けられた。被告人男性は再審を申請しているが私も支持する。国際法では明らかに死刑は成立しない。
 そもそも、裁判に感情的断罪はあってはならないのである。ヨブの過ちを三人の友は誰も指摘できず、三人の友に同行していた若輩のものが最後指摘してヨブは過ちを認めたが、本村被告には若輩のもののような存在がいない。それが彼の大きな不幸である。
 本村被告にもう一度言おう。
 『感情的断罪は完全犯罪をアシストする愚行である』と。荒川沖連続殺傷事件の被告人が生み出された構造も彼がいわばアシストしたようなものである。それが結果として秋葉原連続殺傷事件に繋がったのだ。
 それで悲しい思いをしているのは、暴行致死事件で生命を奪われた本村被告の妻と娘なのは言うまでもない。そのことを何故周囲は指摘しないのか、本当に私は苛立ちすら覚える。