2017年5月3日水曜日

マジョリティのあなた方へマイノリティの私からのメッセージ

1.極右・極左やその傍観者はいらない
 私自身は、2011年にアスペルガー症候群と診断されて現在、障がい当事者枠で一般就労を何とか果たしている。
 そこまでには5年という時間がかかったが、決して無駄ではなかったと今は胸を張って言える。
 その経験から言うと、最近あまりにも現実を知らない人たちが多すぎる。極右の主張もひどいのだが、現実を知らないという意味では極左もひどい。
 だから、私は双方を厳しく批判し続けるし、現実を見て見ぬふりをする傍観者達も嫌いなのである。
 私は障がい当事者であるとわかった後、2013年にある企業の就労訓練生となり、その年の8月に継続A型社員として働き始め、去年10月に一般就労を果たした。
 その中で感じた事は、あまりにも社会が障がい当事者や在日コリアン、海外からの労働者、LGBT等の置かれている現実を見て見ぬふりする実態である。
 中には、『聲の形』に代表されるように逆に問題をこじらせる作品がヒットするのだからもう、頭がいたいとしか言いようがない。この作品は『ディスコミュニケーション』をテーマにしているが、それで障がい当事者へのいじめ(主人公も発達障碍の疑いがある)が正当化されることはまずありえない(作者自身も自覚はしているようだが、その事への道徳的な戒めがないのはいかがなものかと思う)。しかも、現実社会が反映されているとは思えない。スマホは入れても人工内耳手術が保険適用されるという事が書かれていないのだから驚きだ。
 だが、この作品が何故か『良かった』と評価されている事は深刻な危険性を持っている。以前ここでも述べたように、優生学が無意識の中に潜り込まれているからだ。この優生学は意識したものもしくは無意識なものであっても許されないものだ。
 あのヘレン・ケラーを支援したことで有名な電話の発明者、グラハム・ベルも優生学の信奉者だった。その優生学はナチスドイツのユダヤ人虐殺などの思想的バックボーンになっていた。そのことを踏まえると、私は絶対に見逃す訳にはいかない。

2.自分でもどうにもならない事を抱えたマイノリティの辛さは言葉にならない
 発達障がい当事者、LGBT、身体障害、在日コリアン、児童虐待被害者、その他障がい当事者等の方々は、痛みを声にすることすら出来ないほど傷ついている。
 在日コリアンの中には、マジョリティに寄り添うことが生き残りと思い込み、レイシズムに走るケースが出てきている。
 そういった人を生み出しているのは、私達の中にある傍観者そのものの思想なのではないか。
 私達は、他人の痛みを他人事のように受け止めていて、『あのようにならないようにしよう』と考えがちだ。
 そのあり方は時によっては正当化されることもあるが、その結果によって生じた負の結果に対して、私たちは逃げてはいけないのである。

3.マジョリティがマイノリティの痛みに耳を傾けない限り本当の世界は見えてこない
 『聲の形』に激しい憤りを感じて私は言葉をぶつけた。
 その言葉はファンにとって強烈なものだったのだろう、様々な意見があることは承知だ。だが、私は言葉を発したことを悔やんでいない。
 誰かが、厳しい言葉を挙げなければ、その痛みが伝わらなかったのだ。その痛みは、マイノリティにとってかなりきついものなのは確かだ。
 私は小学時代から中学時代にかけていじめの被害を受けた。その被害を回復させるためにそれなりの代償を払ってきた。
 更に就職後もパワハラ被害を受けて苦しんできた。そんな苦しみを何度もくぐり抜けてきた私に言わせると、あの描写はちゃんちゃらおかしいと言わざるをえない。
 私が小さい頃に見ていたアメリカの教育番組『セサミストリート』では、このようなシーンがある。

Classic Sesame Street - Animation about indians - YouTube 0:33
https://www.youtube.com/watch?v=PuJzKVF_gxQ

 ここに出てくる移住民が先住民とガンマンに扮して紛争ごっこをしていたところに、先住民が『本当の先住民はそんな事をしない』とたしなめる動画だ。
 私が発している言葉もそれに近いのかもしれないが、『聲の形』のもたらす負の影響を容認するわけには行かないので厳しい言葉を発さざるをえないのだ。
 ディスコミュニケーションの問題は他にもあるのではないか。たとえば在日コリアンと日本人の心の交流を描く作品だっていい。いわばその角度次第によって物事は変わってくる。この作品については今後も厳しく言い続けることになるのだろうが、皆さんも考え続けてほしい。
 なお、私は一般就労を果たしたが、もしどうやったのかと聞かれたら、『残された箇所をより良くすること、必要以上に人に求めない』としか言いようがない。それぐらいしかないのだ。

4.わかったふりは意味がない、傍観者の振る舞いだ
 また、ここで触れる程度で苦言を呈しておかねばならないことがある。
 『東京タラレバ娘』という漫画である。この作品は東村アキコによって描かれている。
 35歳の女性3人が「タラレバばかり言ってたら こんな歳になってしまった」そんなにイケていないはずじゃないのに気づいたらアラサ―になっていたという作品である。
 この作品については以下の評価が鋭い。

http://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/12/25/000000  
2016-12-25 「東京タラレバ娘」が「ハッピーマニア」を越えられない理由。

 私も同感だ。女性が主役と言いながらも実態は男性が主導権を握っているだけ。結局つけを女性に回しているだけなのだ。
 そして読者やビューアーには『あんなふうになりたくない』と思わせるだけで、結局女性を最終的に馬鹿にしているとしか思えない。
 それで何が得られるのか、私には理解できない。
 結局東村はわかったふりをしているのであって、それは行き着く結果として傍観者の思想そのものだ。私はそういった傍観者的な物の見方には絶対に負けたくない。上から目線そのものの発想に、否の声を上げ続ける。
 人生を一人一人が力いっぱい踏みしめて歩き、最後の時に満足しうる人生であってほしいと願っている。

 ただ、皆さんに伝えておきたい。
 私の意見はあくまで一見解であり、皆さん方の見解はまた別にある。その見解を妨害する気はないが、レイシズムに関しては否の声を強く出すとだけ明言する。