2017年2月18日土曜日

ネットの反知性が生み出される構造

 最近の『ネトウヨ』が生み出される構造、過激左翼の暴走を生み出す構造を見てくると、私はリアルとヴァーチャルの区別がつかない事にその原因があると見ている。
 しかも、その被害はヴァーチャルからリアルにダイレクトにつながってくる。以前問題になった女児連続誘拐殺人事件の被告人については、身体に障害を抱えており、それがきっかけで小学時代にいじめられたことがきっかけで二次障害として精神疾患を抱えたことが明らかにされている。私自身は犯した罪については許す気にはなれないが、彼を死刑にするのは未だに疑問に残っている(死刑の執行についてはアムネスティ・インターナショナルによって批判されている)。
 インターネットの民間への開放で、私達はネチケットというルールを厳しく問われることになった。ブログを運営するにしても、ヘイトを見逃さないという当然のルールが暗黙知として厳しく求められている。
 旧約聖書より引用させていただこう。

(シラ15・15~17)
その意志さえあれば、お前は掟を守り、 しかも快く忠実にそれを行うことができる。
主は、お前の前に火と水を置かれた。 手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。
人間の前には、生と死が置かれている。 望んで選んだ道が、彼に与えられる。

 この言葉の意味は、残念ながらインターネットの世界でも当てはまる。
 発言するにしても、私達はヴァーチャルの情報であたかも経験したかのような錯覚に陥ってしまっている。その結果、ヴァーチャルの世界観が正しいと思いこんでいまう。だが、リアル=現実はそれを数段上回る厳しく辛い世界観なのは言うまでもない。傷つくことだって何度もあるし、辛さゆえに泣いてしまうことも、命を落とすことだってある。
 インターネットの世界では、Googleのストリートビューに代表されるように日本に居ながらにしてパリの光景を見ることも出来る。その世界の凄さに溺れ込み、リアルの世界観を軽蔑する。その結果、リアルの世界観を知らない空っぽ頭が増えてきている。
 いわゆる『アベシンゾー=朝鮮人論』だってその世界の延長線にすぎない。そして彼らに共通していることは自分で積み上げた経験がまるでなく、付和雷同であることだ。その結果、いわゆるネトウヨブログでネトウヨにゴマをすりながらアンチレイシズムブログでアンチネトウヨであることをアピールする奇妙な現象が見られるのである。
 そこに、ネットの反知性が生み出される構造があると私は見ている。自分の頭で考える努力がまるでない。それでいいのだろうか。

 私はLINEを使っているが、そこまで深い人間関係の構築はできないことも知っている。いわばリアルの積み重ねがないからだ。
 それでいて、ヴァーチャルのダメージがリアルでは現実になる。それでいいのだろうか。

□拙ブログにおいてはレイシストのメッセージ送信、コメントへの引用などを固く禁止します。