2016年12月24日土曜日

感動ポルノが障がい者の社会的自立を妨げる

 今回は週刊東洋経済より取り上げたい。
 私はこの雑誌への信頼が非常に高い。『読売新聞』や『産経新聞』よりもレベルが極めて高い上、人権にも配慮がある優れた週刊誌である。私はこの週刊誌への信頼を寄せている。


障害者は健常者に「消費される」存在ではない
東洋経済オンライン 2016年9月4日(日)6時0分配信

 今年もまた夏休みの一大チャリティイベント、24時間テレビが放映されました。障害や難病を抱える人がさまざまな課題にチャレンジすることで注目される番組ですが、その裏番組として、2012年に障害者のための情報バラエティ番組として始まったNHK「バリバラ」が生放送をぶつけました。今年のタイトルは「検証! 『障害者×感動』の方程式」。これを見てビックリしたのは私だけではないはずです。出演者のTシャツはあちらの番組と同じ黄色、障害者をテーマにした感動ドキュメンタリーのありさまについて24時間テレビをこれでもかとばかりにパロディ化、ツイッターなどでは大きな反響が湧き起こりました。
 番組の中では、骨形成不全症を患い2014年に亡くなったオーストラリアのコメディアン兼ジャーナリスト、ステラ・ヤングさんのTEDでのスピーチ「障害者は『感動ポルノ』として健常者に消費される」も紹介されました。ステラさんは「私はあなた方を感動させるためにここにいるのではない。見知らぬ人から“あなたは勇敢だ”とか“元気をもらった”と言われるけれど、これらは人をモノ扱いしている行為。健常者が良い気分になれるよう、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしている」と述べ、「乗り越えるべき障害は、体や病気にではなく、社会にこそ存在する」と断言しました。

■ 障害者を軽視する思想はどこから生まれた
 7月26日未明に起きた相模原の障害者施設殺傷事件は、日本中を震撼させました。A容疑者は重度知的障害者だけの殺害を目的に「津久井やまゆり園」に押し入り19人を殺害、26人に重軽傷を負わせました。A容疑者の「障害者は周りの人を不幸にする。障害者は生きている意味がない」との主張は、実は今の社会に生きる私たちの価値観やありかたと無縁ではありません。
 「ひとのいのちは地球より重い」などとうたう一方で、経済的な利益を何よりも優先し、生産効率や労働能力で人の価値を判断、序列化する社会。成績や偏差値の高低が生徒の優劣を決める学校教育。障害者でなくても生きづらさを感じるこうした社会風潮は私たちが作り出したものであり、このありかたが障害者の生存を軽視・否定する思想を生み出す土台になっていないのか。私たちは今一度考える必要があります。そのことを考えるヒントとなる事件をご紹介しましょう。

アシュリーを知っていますか
 2004年、米国のシアトルこども病院にて重症重複障害(脳性麻痺)のある6歳の少女アシュリーに対して、3種の医療介入が両親の希望のもとに行われました。エストロゲンの大量投与療法による最終身長抑制、乳房の生育を制限する初期の乳房芽の摘出、生理と生理痛を取り除くための子宮摘出手術です(開腹の際に盲腸も摘出されている)。
 これを報じる記事が2007年1月3日、ロサンゼルス・タイムズに掲載され大ニュースとなりました。「障害女児の背を伸ばさない決断を両親が釈明」。障害者の人権擁護団体やフェミニズムの活動家らはこのことに対して猛抗議を行いました。「尊厳を踏みにじる許しがたい暴挙」「人を変えるな、制度を変えよ」との非難声明を相次いで発表したのです。
 一方、アシュリーに行われた一連の医療介入(処置)をセットにして“アシュリー療法”と名付けた両親は、そのブログで自分たちの決断の動機や意図を説明し、アシュリーのみならず広く世の重症児に適用することを提案しました。

■ 人としての尊厳より介護環境を優先させた両親
 アシュリー療法の目的について、父親は「重い障害のある娘のQOL(生活の質)を維持向上させる手段として思いつき、医師に要望した」と説明、「生理痛がなくて発達しきった大きな乳房からくる不快がなく、常に横になっているのによりふさわしく、移動もさせてもらいやすい、小さくて軽い体の方が、アシュリーは肉体的にはるかに快適でしょう。アシュリーのニーズはすべて赤ちゃんと同じニーズです。完全に成熟した女性の体よりも9歳半の体のほうがふさわしいし、より尊厳があるのです」と、あくまでも本人のためであることを強調しました。
 さらに父親は「自分では何にもできない、寝たきりで頭の中は生後3カ月の赤ちゃんなのに、一人前の女性としてさらに成長していくなんて、私たちにとってはグロテスクだとしか思えなかったのです」と述べたのです。
 アシュリー療法を施すことは簡単な決断だったと語る父親にとって、自分たちの想像し得る枠に小さいままのアシュリーを落とし込むことは何の迷いもありませんでした。アシュリーはどうせ重症児だから。しかし重症児だから何も分からないとするのはあまりに身勝手な考えでした。アシュリーの父親に押し切られた印象の強いこの処置は、アシュリーが現状に苦痛を感じての治療ではなく、人としての尊厳より介護環境(両親)を優先させた、治療とは異なるものであったと言えます。
 アシュリーのような重症児がそのままではグロテスクで生きる価値がないとするならば、健常者しか生きられない社会になってしまうでしょう。これを社会としてみたときに、障害者の生きる権利を奪うことにつながりかねません。周囲によって都合良く改造された9歳半の身体のアシュリーは現在18歳。今も両親のもとで静かに暮らしているようです。

差別とは何だろう
 重度障害者は「不幸な人々」ではありません。アシュリーのケースで言えば、医療機器や装具の開発、技術的にも人間的にも優れた介護システムの構築、社会保障等によって、両親が「アシュリーを産んで良かった」「そのままのアシュリーが愛おしい」と思えることができる社会の中に存在していられたら、だれもアシュリーを不幸だとは思わないでしょう。
 筆者が小学生の頃、クラスに重い障害のあるT君がいました。T君が1人で出来ない事はクラスみんなで手伝い、休み時間には一緒に遊ぶことを通じて、T君も自分と同じであることやT君のことを周囲が助けてあげるのは当たり前、と理屈抜きに考えることができるようになりました。しかし最近は障害者を目の当たりにする機会がずいぶん少なくなったように思います。今の若い人々にとっての障害者とは、24時間テレビで見る「感動的な人」、もしくは電車の中で時折奇声を発する、自分とは違う「怖い人」くらいの認識しか持ち合わせていないのではないでしょうか。

■ 4月に施行された「障害者差別解消法」
 2013年には新型出生前診断(NIPT)が日本で認可されました。赤ちゃんに染色体異常があるかどうかが血液を採取するだけで簡単に分かるこの診断に対し、賛否両論が湧き起こりました。個々が受けるこうした診断は、自己決定として社会的に容認され、利用が拡大している現実がある一方で、今を生きる障害者への差別につながりかねません。診断によって障害のある胎児は中絶することが当たり前の世の中になると、「障害者は社会に生きている価値がない」との論理を肯定してしまう危険性があります。
 同じく2013年6月には長年の障害者運動の悲願であった「障害者差別解消法」が国会で可決成立、今年4月に施行されました。障害者差別解消法では「不当な差別扱い」と「合理的配慮をしないこと」が差別になると明記されています。多様性や異質性、個人の存在価値を認め合いながら共に生きて行く社会がようやく実現したのです。障害者に対する差別意識とは、社会によって刷り込まれた差別です。
 あまりにも重い障害のある人を見た時、ひるまない人はいないでしょう。それは率直な感覚だからです。そうした自身のまなざしを自覚すること、そして取り除くべき障害は社会の中に存在することを、日々の生活の中で繰り返し考え続けることが大切なのだと思います。
 まもなくリオ・パラリンピックが始まります。繰り広げられる感動シーンに私たちはどのような視線を向けるのでしょう。
筧 智子
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□一部氏名を匿名にしました。

 私は『24時間テレビ』と今は決別している。
 理由は障がい者を見世物にして、社会的な自立達成に何も役立っていないことへの疑問だ。今やジャニーズタレントの見世物ショーとマラソンだけでしか持っていない。一体いつからここまで堕落したのだろうか。
 アニメ映画『聲の形』も、諸情報を見てくると優生学的暴論に基づく感動ポルノだった。NHKの某朝の報道番組では好意的に取り上げられたようだが、私は厳しい意見を今でも述べざるをえない。生活者としての等身大の姿が、物語を煽るためにことごとく排除され、単なる恋愛話に終わってしまっている。手話はあくまでも盛り込まれた程度になっているようなもので、極めて欺瞞的と私は言わざるをえない。ディスコミュニケーションの問題とやらといい、心の交流とやらは下手くそな言い逃れにすぎない。これで迷惑なのは現場でコツコツとやっている人達なのである。
 Yahooのコメント欄ではバカウヨどもがヘイトスピーチを浴びせているが、私はそれとは別の角度で批判している。二重三重で障がい当時者を侮辱する内容だからだ。そのことはここで何度も言及しているのでここでは書かない。
 生活者である障がい当事者のありのままが排除されているようでは、何も見えないし何も分からない。その結果、障がい当事者は孤立してしまう。
 その結果、カルトや反社会的勢力に悪用されるのが落ちなのである。そんなやり方でいいとは、私には思えない。社会的自立を妨げるのは、こういった誤解を招く感動ポルノであり、社会的自立を加速させるのは障がい当事者に適切な仕事を常に考え、共に作ることなのである。そして「○○ちゃん何しましょうか」と大の大人に媚びるような振る舞いをするようでは、決していい結果はない。
 あくまでも一人の人間としての尊厳を尊重し、できることは本人に任せるべきなのである。

 また、『聲の形』の原作者である大今良時被告は週刊少年マガジンにて聖書に挑むと称して『不滅のあなたへ』なる作品を連載中だが、恐らくキリスト教的な利他を理解しないまま終わるのが落ちである。
 本質を見ずにただあるものを描く程度なら、『東京都知事』という名前の詐欺師で東京都民に重大な迷惑を与えた猪瀬直樹被告と同じでしかない。猪瀬被告は作家の佐野眞一氏の読売新聞の腐敗を暴いた力作『巨怪伝』を誹謗中傷し、他の作品を大宅壮一ノンフィクション賞に推薦させた。その結果、読売新聞から読書欄を一年間任された。ちなみに猪瀬被告は佐高信氏からボロボロに扱き下ろされて、その批判が怖くて逃げまくっていたことは有名で、佐高氏へけんかを売って逆に返り討ちに合う醜態である。
 読売の件について人は賄賂と指摘するのであるが、大今被告も似たり寄ったりでしかない。彼らはただ単に皇居の周りをジョギングして皇居の中の人の生活をすべて見たと妄想しているのにすぎないのであり、その本質は何も見えていない。