2016年10月18日火曜日

2010年の批判が通用するお粗末ぶり

粗製濫造 いい加減な作り方の質の悪い製品を、むやみやたらに数多く作ること。▽「粗製」は粗末な作り方、「濫造」は無計画に大量に物を作ること。「濫」は「乱」とも書く。 

マンガとアニメの粗製濫造

04.09.2010
 いったいこれほどの量を作ってどうするのか、というくらい作られている。なんでもかんでも作品になる。が、儲からない。それでさらに量産する。まったく悪循環だ。中身は似たり寄ったり。
 ひとことで言って、くだらないのだ。作っている連中は、読むはずの連中よりも人間として劣っている。マンガとアニメばかり読んできた幼稚な記号的世界観。た しかに絵はうまいが、語るべきもの、聞くに値するものが、そこにはなにも無い。だから、世間から見向きもされない。もはや子供たちにさえ見捨てられてい る。ただ仲間内だけでカネが回っている。
 絵画でも、音楽でも、そうだ。技術ではない。表現以前に、その人でなければ表現できないものをつかまなければ、なにを作っても空虚だ。逆に、どうしても伝えたいものがあるなら、それが聞くに値するものなら、技術がなくても、人はそこに心を奪われる。
 芸術は、技術ではない。表現だ。だから、まず人間作りから始めないとならない。
引用元:純丘曜彰教授博士の哲学手帖
大阪芸術大学芸術学部教授、哲学者、表象文化論研究者、小説家、クリエーター

 今回はこのコラムを引用する。
 このコラムは2010年4月に書かれたものだが、切れ口は鋭い。講談社の漫画ひとつとっても「週刊少年マガジン」における『聲の形』・『ドメスティックな彼女』・『リアルアカウント』や「月刊少年マガジン」における『四月は君の嘘』はほとんどこの論で完全に論破できると指摘してもいい。これらに共通している問題点は、命をあまりにも軽く見ていることだ。人の営みがあまりにも軽く扱われ、そこにまで至る道が見えてこない。
 『聲の形』よりは山本おさむ氏の『どんぐりの家』を再掲載すればいいと私は考えている。同じ障がい者の差別の問題でもこの作品は生命の営みをきちんと取り上げているからこそ、大きい物があると考えている。そうすることで考える力を人はいつしか身につけていく。『ドメスティックな彼女』よりは江川達也氏の『東京大学物語』が数段トップと見ていい。小学館でもこれだけいい作品はあるのだから、その小学館に頭を下げて再掲載することもひとつの勇気ある決断なのだ。 また、たちばなかおるという漫画家が書いている「ユンタのゆっくり成長記」もおすすめである。
 あまりにも実体験がない、もしくはその当事者への取材が不十分なために、作品の中身はどんどんと軽薄なものになっていってしまう。その結果は売るためなら過激な設定にしてしまうことだ。そんなことでいいとは私には思えない。
 老舗の推理漫画になった『名探偵コナン』・『金田一少年の事件簿』もこれでなるほど粗製濫造化したのだなと頷ける。そうして漫画はただ売れればいいという商業主義に走ってしまい、『ワンピース』や『金色のガッシュ!!』(この作品は作者が連載を辞めたかったのに無理やり引き伸ばす暴挙を小学館がやらかした)のような商業主義一辺倒の作品ができてしまう。『ドラゴンボール』とても、新作と言いながらも過去の作品の刷り直しにすぎないのだ。質のいい作品はどんどんその中で脱落していく。
 技術がたとえすごくても、そこに訴えたいものがない限り意味は無い。技術と心の間に大きなギャップが有るということだ。ライトノベルにしても、この指摘は通用している。最近の小説だってまさに粗製濫造そのものなのだ。最近の本屋の店頭はまさにもう、出版社が売りたいものはあってもまともな読者が読みたいものがないとしか言いようがない。
 だから、私は最近の本屋には期待していない。私が立ち読みするとしてもせいぜい週刊東洋経済、週刊金曜日、鉄道ファンなので関連雑誌ぐらいなものである。