魯迅『諺』より
「独裁者の反面は奴隷である。権力の座にあるときは万能だが、権力を失えば奴隷性百パーセントになる。」
今回は、魯迅の言葉を冒頭に取り上げる。
踏み台、それは何を意味するものか。今月で誕生日を迎える私だが、反骨精神を忘れない意味で、奴隷にはならないと決めている。
私は今まである意味、他人の踏み台のようにされてきた人生だった。クレーム処理で大変難しい物を無責任な上司から押しつけられたことで何もかも失い、傍観者によって人生を翻弄された。ネットのゴタゴタにも疲れ果て、しがらみにも翻弄された。今の人達を見てくると、ネットとの適切な距離感を見失っているような気がする。
今の私は、その当時の愚か者どもについては容赦なく切り捨てているし、踏み台にもしない。こういう輩ほど実は、上記のセリフがぴったり当てはまるのである。奴隷ごときを相手にする必要もないし、今では何をしているのかも聞いても興味はそれほどない。むしろ相手にする時間がもったいないとしか思わない。
だが、私は良い意味で踏み台になるというのならば喜んでなる。
それは、他人が不遜な私を超えるべき壁として認識し、乗り越えることである。私ははっきり言ってこの世を乗り越えるため、敢えて高い壁を目指す。それ故に誤解されることもあるが、私は恐れない。もう、何もかも失い、自分で取り戻してきたことでその喜びを知っているからだ。
取り戻したことで得られる充実感に、傍観者や奴隷は一生気がつくまい。成長の糧にするというのなら、対等の関係になるわけだから、そういう意味での踏み台なら歓迎する。