2016年5月30日月曜日

「サルガッソーの広い海」を生み出した「ジェーン・エア」から「聲の形」を問う





 この映画は、サルガッソーの広い海という。
 ジーン・リース (Jean Rhys,1890年8月24日-1979年5月14日)というイギリスの小説家によって書かれている。イギリス領ドミニカ出身のクレオール(父はウェールズ人、母はスコットランド人、わかりやすく説明すると植民地出身のヨーロッパ人(ここでは白人という言葉を使いませんのでご了解ください)である)なのだ。
 彼女を有名にしたのは1966年に出版された『広い藻の海』(日本語訳では『サルガッソーの広い海』というタイトルのものも出ている)である。この作品は『ジェーン・エア』(シャーロット・ブロンデ作)に登場する精神疾患当事者の、前半生を語る異色の小説で、後に映画化された。それがこの動画なのだ。
 このジェーン・エアに出てくるバーサという女性が精神疾患当事者なのだが、なぜそうなったのかをこの作品は丁寧に描いている。

 リースはバーサにアントワネットという名前をつけ、ジャマイカのヨーロッパ人の入植者の娘で、父亡き後は母と知的障害を持つ弟との3人暮らしとした上で、奴隷解放が宣言されたあと没落し、貧乏になった白人一家とした。彼女らは周囲の現地人から敵意を浴び、「白いゴキブリ」と呼ばれ、家族の無関心や誰からも心の底から愛されたことのない彼女は、荒れ放題だが野生美むきだしの庭や大地を愛していた。そこに母の再婚と、焼き討ち事件。アントワネットをもてあました義父は、彼女をイギリスからやってきたロチェスターに持参金つきで押し付けた。ロチェスターはアントワネットとの結婚について自分を「詐欺にかかった哀れな男」と言っている。しかも、それぞれの背景の違いから生まれるギャップ、そして精神的な破綻…。
 これらの背景にあるのはクレオールへの蔑視の視線だ。しかもイギリスの貴族社会を成り立たせている植民地の実体とともに、この欺瞞があばかれる。

 私は最近、9月17日に『上映』されることになった「聲の形」を自分なりに違った角度で書きなおしてみようと動いている。
 メディア化展開されるからこそ、歪んだ解釈を鋭くえぐらなければ障がい者差別の本質は消えない。「サルガッソーの広い海」をポストコロニアル理論という。
 この日本版が残念ながらないのが現実だ。いわば、ロチェスターもアントワネットを「飼育」していたのだろう。そんなのでは、健全な人間関係はできない。「聲の形」における竹内、植野直花、島田らはいわば飼育、搾取を狙って弱いものいじめをしていたのだろう。島田の場合は、主人公をうまく騙して動かしていただけ悪質である。さらに渡辺淳一の「失楽園」や「愛の流刑地」も、同じ奴隷の関係にすぎないし、流石景の「ドメスティックな彼女」も同じ関係にすぎない。
 だがその飼育の論理を打ち砕かなければ、民主主義の基本原則など理解できるわけがない。そもそも、生活者という発想が抜け落ちているのだから終わっている。「サルガッソーの広い海」が漫画化されるのなら、私は基本的には応援したいと思っている。