2015年1月27日火曜日

この寒気をおぞましいと思わずしてなんというのか

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作者・大今良時が語る『聲の形』誕生秘話 自身の不登校が創作の原動力に

ダ・ヴィンチニュース 2015年1月24日(土)11時30分配信


 雑誌に掲載されるや否や、反響を呼び多方面から注目を集めたマンガ『聲の形』(講談社)。この度、第7巻にて堂々の完結を迎えた。同作は「このマンガがすごい!2015」にて、オトコ部門1位を獲得するなど、連載開始から一貫して評価は高い。

いじめの代償は大きかった!? 被害者と加害者のバトルロワイヤル問題作登場

 オリジナル作品で初の長期連載を終えた作者の大今良時さんにインタビュー。作品誕生のいきさつ、また自身の10代についても聞いた。


■『聲の形』とは
耳に障がいを持つ転校生西宮硝子が、ガキ大将だった石田将也にいじめられるところから始まる。だが学級裁判で吊るしあげられた石田は、今度は逆にクラスメートからイジメられる存在へ転化していった…。

 この作品は、障がいやいじめという難しい問題から始まる。けれど特殊な人にのみ当てはまる内容ではない。物語は、すべての人が経験する、子どもから大人への成長を丹念に描く。ときに痛々しく純粋で涙がこぼれる珠玉の作品である。


■密かに温めていた連載の筋書き
同名の新人賞受賞作は、まず「別冊少年マガジン」に掲載された。その数年後、「週刊少年マガジン」にリメイク版が読み切りで掲載。その時の反響は大きく、連載化された。連載は急遽決まったそうだが、戸惑いはなかったのだろうか。

「この作品は、18歳に描いた投稿作が元になっています。新人賞受賞後、冲方丁先生の小説『マルドゥック・スクランブル』のコミカライズの連載が始まりま した。その連載中もずっと温めていた作品です。私のなかでは、はじめから連載をイメージしていたのです。ですから、読み切りが掲載後、連載がスタートした 時も、西宮や石田と向き合う準備はできていました」(大今さん、以下同)

 18歳の時に描いた物語は、子どもの世界を的確に見抜いている。とりわけ印象的なのが、いじめのいじめ返しにより、中学高校とボッチで過ごした主人公石田が、「仲間」という存在を築いていく過程だ。

 誰でも一度は感じた「友だちってなんだろう?」という戸惑いと、思春期ならではの繊細な関係を率直に描いている。10代の心の揺れを丁寧に拾い上げるこの作品が生まれたいきさつとは?

「投稿作を描いたころは、まだ岐阜に住んでいました。いずれは上京する気でいたのですが、親の反対で引きとめられていたのです。でも私のなかで、いずれ東 京に行くと決めていたので、当時の岐阜でしか描けないものを描こうと思いました。それが、身近な手話であり、学校生活であり、岐阜の風景だったのです」


■鋭い観察眼で「許し」について考えていた

母親が手話通訳者だったため、手話には幼い頃から親しんできた。また自身の体験も作品には盛り込まれている。そのひとつが、あまり学校になじめずに過ごした10代だ。

「私は友だちにものすごく恵まれていたと思います。おかげで、“友だち”というくくりに疑問をもったことはありません。ですが、学校生活は苦痛でした。私 が通っていた学校は、とても伝統を重んじる学校だったのです。そのひとつが、連帯責任です。何にでも連帯責任を匂わされました。厳しい校風が、とにかく面倒に思えてしまって。最後の半年間は学校に行かなくなりました。それよりは、家で絵を描きたかったので」

 また理不尽な要求をする大人たちへの疑問もそのひとつ。彼女は、冷静に人間観察する目を幼いうちから備えていた。その大人びた視線は、作中に登場する西宮の妹・結絃のようでもある。

「学校生活のなかで、先生の態度には、色々と考えさせられました。あるとき、男子がいたずらをして、ものを壊したのです。彼らは心から反省しているように 見えましたが、それを先生はまったく聞き入れなくて。間違いに気がつき、謝罪したのにも関わらず、なぜ許されないのかと思いました」

 誰でも失敗してしまうことはある。その過ちは、どうすれば許されるのか。その疑問は、『聲の形』でも問いかけられている。物語の石田は、西宮をいじめ、 転校を余儀なくした。人生を左右する大きなあやまちを犯したのだ。それに対し、何をもってすれば、当事者や周囲の人間は、許すのか…。

「私は、自分が間違っていたと気づいた時点で許してあげたいと思っています。けれど、例えばイジメをした石田のような場合、石田自身も、また周囲も彼を許さないでしょうね」

 その答えのひとつが、今回発売となった最終巻に描かれている。映画作りで集まった仲間は、石田のいじめの過去を知り分裂の危機になった。だが石田と西宮の行動により、絆はより強まったように感じた。 

■キャラクターはすべて自分の分身
『聲の形』が社会の縮図のように、リアルに感じられるのはその登場人物からも読める。空気の読めない“優等生”の川井みき。「すべて自分が悪い」と溜め込む西宮。とりわけ興味深いのは、自分の意見は直球で伝える植野直花の存在だ。

「(小学生のころ)ノートに悪口書いたりしたのはメッセージだよ。…“私たちにもう関わらないで”っていう …そしてあなたもやり返した。大人を使って」
「あなたも私のことを理解しなかった」
<第3巻「第27話 嫌い」>

 植野は女子なりのやり方で、西宮をいじめていた。いじめはどんな形でもけっして許されない行為だ。けれど、それは子どもなりにつらさを感じていたからでもある。
 席が近いからといって、いつも人のサポートを求められるのは、正直面倒だ。これは学校の配慮やシステムの不具合によって生まれたひずみを、子どもに背負わされているがゆえに発せられた不満だ。だが口にするのはタブーな本音でもある。

「植野は、みんなが言えないことをあえて言ってあげている、と思っているキャラです。いつも暴走ばかりしてしまう、かわいそうなキャラ。仮想敵を作り、自分を正当化し続けないとやっていかないのでしょう。人ごとのように言っていますが、登場人物は、すべて自分の分身でもあります。だから植野を描いている時は、植野と同じように苦しい気持ちになります。石田やその級友の永束友宏も同じです。…自分に一番近いのは、佐原みよこではないかと思います。ものすごい 理想の形ですが」

 佐原とは、西宮をかばったせいで女子から無視され、不登校になったキャラ。けれど、そのつらい経験から誰よりも寛大だ。
 ひどい言葉を吐き、自暴自棄に陥っている植野が「もう友だちじゃないよね」との問いに対して、「友だちだよ」と温かく返す。

「佐原は、ストレスが大きすぎて、ストレスが強さになってしまった人物です。植野がどんな子か分かっちゃっているんです。それでも受け入れる」

 友だちの定義がなにか、に対する答えは、このシーンにあるように思える。完全無欠の人間などいない。その個性ごと受け入れるのが友だちではないだろうか。


■次回作の構想は……?
 10代で自分のやりたいことを貫き、マンガ家という夢を叶えた大今さん。ご自身同様、学校に通うことに意味を見いだせずに悩む若者へエールをお願いした。

「学校に行かない時間も、その人にとってすごく大切です。なぜ行かないのか、とことん向き合って、自分なりの答えを出して欲しいです。中学・高校生という 肩書きを持っているのは、今しかありません。そういう貴重な時間と気づきながら過ごすなら、学校に行かなくてもいいのではないのでしょうか」

 連載を終えた現在は次回作を模索している最中だという。どのような内容になるのか。

「映画を見るなどして、アイディアを練っています。『聲の形』が入選する前は、ファンタジーっぽいものも描いていました。今は、その当時にやりたかったことは、どんなものだったのかを思い出している時間ですね」

 劇場アニメの公開が予定されている同作。大今さんの新作とともに今から待ち遠しい!

取材・文=武藤徉子
Copyright (C) 2015 KADOKAWA CORPORATION


 今回、臨時にこの記事を引用したコラムを公表したのには理由がある。
 この作品に対し私は厳しく批判を続けてきた。この作品がマジョリティによるマイノリティへのレッテルの正当化に使われていることは明らかで、以前ここで批判の声をあげた際にコメントを寄せていただいた方のいう指摘、言うならば「被害者はもっと強くなれ」という考えに寄り添っている。このやり方は人権上著しい問題がある。
 そういうやり方は私の知り合いの社会福祉士も絶句するひどいシロモノである。私は色々とこの数カ月間、模索してきた。私はどうも他の人達と比較して厳しい性格のようだが、それも自分だと思って前に進んできた。この作品が問題なのは、いじめの正当化に使われる危険性が更に高くなっているということだ。
 障がい者の問題をきちんと取り上げているといえば、山本おさむさんの「どんぐりの家」「遥かなる甲子園」が明らかに上だし、吃音の問題で言うなら、押見修造さんの「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」もそうだ。押見さんも吃音当事者だが、吃音の問題を描いたというわけではなく、障がいをどのように受け入れるかという立場で描いた。
 それに1986年に公開された映画「やがて…春」もそうだった。そういったものを見てきた私に言わせると、「聲の形」は明らかにピントがずれているのだ。そして、武藤氏のようなピントのずれた視点には寒気すら感じる。これがおぞましいと言わずしてなんというべきか。
 武藤氏には、ポストコロニアル理論を伝えたい。

※ポストコロニアル理論(英: Postcolonialism、ポストコロニアリズム、ポストコロニアル批評ともよばれる)は、狭義には文芸批評の理論である。植民地主義や帝国主義に関わる文化、歴史などを広範囲に取り扱い、批評、評論していくが、多岐にわたる方法論や問題意識の集合体であり、一つの運動ではない。
 20世紀後半、第二次世界大戦後、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』(1978年)の視点がポストコロニアル理論を確立した。
 例えば、ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する。一般に、旧植民地と旧宗主国またはその他の国との関係性に着目し、西欧中心史観への疑問を投げかけ、旧植民地文化の再評価のみならず、西欧の文化を問い直す視座を提供する。日本の場合、ヨーロッパとの関係、アジアの植民地との関係においても考察の対象になる。
 今日では、西欧世界の他者理解を批判するためのみならず、自国の他者理解にも通じる視点をもった、文学および思想の分析、メディアに対する分析、さらにフェミニズムからの分析などが行われている。

Wikipedia日本語版より引用

 今、私達はこの立場を見据えなければならない。
 植民地を在日コリアン・イスラム教徒・アイヌ民族・沖縄・障がい者などに、旧宗主国をマジョリティに置き換えると、この理論は今でも通用するのは明らかだ。
 つまり、大今氏はマジョリティの目でしか障がい者の困難を見ていなかった。その中で生きてきた者達の声を無視したのが、『聲の形』だったのだ。でなければ、明らかに人工内耳を使うほど重い障がい(ただ、神経がやられていたら人工内耳は使えない)であるヒロインなのにそれを無視した設定では、障がいを単に話を煽るソテーにしているとしか思えない。これではかえって障がい者を侮辱しているとしか思えない。許しの作品というなら、取材をもっと積むべきだった。そして、現実をもっと厳しく見るべきだった。それができないのなら、漫画家失格だ。
 いや、やりたくてもできないのだろう。今の漫画は読者の人気度に煽られていて、品質よりも人気にばかり傾いているからだ。その結果は、人気さえ良ければ金が安いからといって外国人に作品を書かせるような時代だ。こんなやり方は絶対に間違っていると言わざるをえない。文化としてのコミックはどんどん価値を下げていくのだ。
 私はそうした動きに今後もあがき続ける。 間違っているものは間違っているのだからだ。手話を学ぶ人が多く増えるのは大いに構わない。だが、これが一過性のブームになってしまうことを私は恐れている。
 残念だが、今回も一過性に終わるのだと思っている。