2013年10月1日火曜日

「言語によるコミュニケーション」(パブロン中毒さん)

 お疲れ様です。
 パブロン中毒さんからコメントが来ております。その中身をそのままここで公開いたします。
 パブロン中毒さんに感謝申し上げます。



 さて、私は今回、ほんの少しですが、「言語の習得」というテーマでもって、語らせていただきたいと思います。
 まあなんの役にも立たないかもしれませんが、「私でないと語れないこと」があるように思うので、そうすることにします。

 言語は、誰でも「1つ」は、努力しなくても身に着けることができます。
 「言語」の問題はすべて、「非母国語の習得」にあるわけでして、すべての「問題」は、「それが第一言語でない」「第一言語でないものを、なぜか操らねばならなくなったとき」に、生じるわけです。
 ここまでは、よろしいかと思います。

 非母国語の習得というのは当然のことながら、「その個人がある程度成長して、第一言語を自分のものとして身に着けたあと」に、することになります。そうでない場合には、バイリンガル・トライリンガルなどになる可能性があるからです。
 そして、非母国語を習得するという行為は、とりあえずは、誰にとっても「苦痛」なのです。これは、間違いありません。
 これは、苦しく、嫌な行為なのです。
 人間の脳や口の中というのは、そういうふうになっているので、できているので、仕方がないことなのです。
 「苦痛である」という事実を、まず認める。
 「楽しい」というふうに思い込むとか、「楽しいでしょう」というふうに、思い込ませるとかいうことを、やめる。
 非母国語の習得は、とりあえず、人間にとっては負担でしかなく、苦しいのです。
 そして、「母国語の系統から離れた言語」であればあるほど、その苦しさは強くなるわけです。
 たとえば、日本語と英語の間が、ものすごーーーく離れているということからしまして、これは、どちらを母国語としている場合であっても、「すごい苦しいものである」ということは、間違いありません。
 この2つの言語ほど、かけ離れた言語というのも、なかなかないように、私は思います。
 ただし、「英語を学ばせたい人たち」というのは、その事実を、なるべく隠そうとしますが、かけ離れているということは、どうやっても隠せません。
 そのくらいに、この2つは、違いすぎます。
 あまりにも、共通点がないのです。
 これだけかけ離れているのですから、なかなかできないということは、当然なのです。

 さて、私はつらつら考えましたが、赤ん坊や幼児が、「親の話している言語」を、いつのまにやら覚えてしまって、自分も話し始めるというのは、たいへん不思議な現象です。
 ですがまあ、障害児は別として、誰でも放っておけばそうなります。
 だから「別にフツーだろ」とか思ってしまいますが、そうでしょうか。
 アジア人の赤ん坊が、西洋人の養子になれば、養親の言葉のネイティブになります。
 人が「特定の言語のネイティブになる」のは、なぜなのか、まあ私はそこには、「愛」が関係あるだろうなあと、思いたいというのもありますが、現実として、「ヒトの言語習得機能」というものを考えたときに、やはり「愛」が関係ないはずはないだろうと。
 思うのです。
 赤ん坊は養育者に愛されなければ生きられないので、養育者を愛し、養育者の言葉を話すようになる、または、養育者から受け取る「愛」が、子供の脳に反応し、養育者の言葉を受け入れる、そのどちらであるのか、それはまあ、まだ私には、はっきりとは言えないのですが。

 それでは、「愛」のないところには、「言語の習得」は発生しないのでしょうか。
 これを考える場合に、私の知っているサンプルとしては、黒人奴隷があります。
 彼らはアフリカからさらわれてきて、アメリカに運ばれる船の中などで、監視人の言葉などを耳から覚え、または自衛のために覚えようとした、そして現地に着けば、主の言葉を聞き分けねばなりませんが、そもそもちゃんと教わっていませんし、「愛」などはどこにもない。
 なおかつ彼ら奴隷は、「読み書き」を学ぶことを禁じられていました。
 これはずいぶん長いこと続きましたが、主な理由は、読んだり書いたりするという能力を持つことで、仲間と連絡を取ったり、主に逆らうための力を持つということを、白人たちが嫌ったわけです。
 そういう扱いの結果として、黒人特有の英語というのは、ここでは英語についてのみ触れますが、「独特」のものになって、残りました。
 それは要するに、「ちゃんと教わっていない」「長い間、読み書きは抜きで、口語だけで操られてきた」という原因がもたらしたものでした。ここではその特徴については、細かくは触れませんが。
 ですがまあ、彼らは生きるためには、ある程度の「言語の習得」はしなければならず、アフリカからさらわれてきた状態から、生活に必要な程度の英語が操れる状態にまで、なんとか適応していったわけです。

 私の場合について考えてみると、今思えば面白いなあと、思いますが、まず私の場合には、「英語の習得は、生きるために必要だったわけでは全くない」という状態でした。
 できなくても、特に生活に影響はなく、せいぜい成績が悪くなるという程度です。
 ですがまあ、どうしてだか私は、特定の気に入った歌い手の英語曲を練習し、毎日毎日それを歌いまくり、次から次に歌詞を丸暗記しては、そらでノートに書いていました。
 別に「しなくてもいいこと」をしていたわけです。
 私としては、「趣味」のつもりでした。
 どうしてだったのかと、いえば、やはりそれは私の場合には「愛」としかいえないだろうと、思いますね。
 たぶんその歌い手の歌が、私にとっては「自分に向けられた愛」のように感じられて、それに「反応」したのではないかと、そういうふうに思います。
 別にそれをしたから、誰かが褒めてくれるわけでもなく、それをしなかったから、誰かに折檻されるわけでもありませんが、そこに「自分への愛」がある「ような気がした」ので、もちろん本当はそうではありませんが、とにかくそう思い込んだので、ひたすらそれをやるということが、嬉しかったわけです。
 そして私は、たぶん中学1年か2年くらいには、ネイティブとほとんど同じ発音ができるようになっていました。が、問題は、正確な発音ができるというだけでは、その言語を操って他人とコミュニケーションをするには、まったくもって不足だということでして、文法慣用句そして「語彙」というものは、今でも決定的に不足していますから、非常に苦労しています。

 私は最近は、勉強のために、毎日英語を読んで、書いていますが、あいかわらずいつも「苦痛」です。
 私は実は、「英語を操ること」が嫌いです。
 苦しいからですね。
 英語を、というよりは「非母国語」でもって、他人とコミュニケーションを取るということ自体が、バイリンガルではない私にとっては、もともと苦痛なのです。
 ですがまあ、まだ諦めないでやっていると。この先はわかりませんが。
 それでまたふと思ったのですが、私はどうして、これをやっているのだろうと、それはやっぱりまた、「愛」と関係あるんじゃないだろうかと。
 非母国語というのは、別の言語を母国語とする人にとっては、とりあえずは、「排除したくなる」ような、アレルゲン的存在です。
 必要に迫られなければ、実際には、なかなか上達などするものではありません。
 ですが、ときには「排除したくならない」ものがある。
 「積極的に、意味を知りたいものがある」というわけです。
 それは「愛が含まれているもの」なのであって、特に、「自分への愛や好意が含まれているもの」は、排除したくならないわけです。
 さらに、そこに書かれている「自分への愛や好意」の正確な意味を知りたくなったり、ひとつそれがわかると、「きっと次も楽しいこと、いいことが書いてあるに違いない」と思って、次を見たくなります。
 そうやって、私を英語に取り組ませてくれた人が、少し前には、いました。
 今はもういませんが、私はたぶん、それで味をしめたといいますか、きっとまたそういういいものに出会えるような気がして、あのころの、「今度はどんないいことが書いてあるんだろうという、わくわくした気持ち」に病みつきになって、ですがニュース記事を読むのなんかは味気なくてひたすら苦痛なのですが、きっとまた誰かに、何かに、出会えるような気がして、英語によるコミュニケーションに取り組んでいるのかもしれません。

 愛のないところにも、必要に迫られれば、生きるために、言語の習得は成立します。
 必要に迫られなくても、愛のあるところには、言語の習得が成立することもあります。
 おそらく赤ん坊には、両方が関係しているのじゃないだろうかと、まあ、なんとなくそんな気もしてきます。